INTERVIEW 05
文化の担い手と向き合い続ける
─ 「チャイハネ」の先代からの教え
チャイハネ
株式会社アミナコレクション
代表取締役社長 進藤 さわとさん
エスニックファッションやアジアン雑貨のオリジナル商品を販売している横浜ベイクォーター4階の「チャイハネ」。異国情緒あふれるこの店は、1978年に横浜中華街で誕生したという。代表取締役社長・進藤さわとさんに、創業者である父が横浜を選んだ理由や、持続可能なグローバル企業として大切にしてきたことについてお伺いした。
世界の民芸、集まる!チャイハネの魅力
「チャイハネ」に入ると、良いお香の香りがした。エスニックな衣料品やアジアン雑貨をはじめ、インテリア、アクセサリーなど、さまざまな商品が天井近くまで並べられている。異国情緒あふれる店内は、ただ見ているだけでも楽しい。海外のバザールやスークにふらり立ち寄ったら欲しいものに偶然出会えた、という感じの店だ。
進藤さんまさに創業者の父が「いつでも気軽に立ち寄ってもらえる店であってほしい」と願い、チャイハネとつけたんです。
代表取締役社長の進藤さわとさんによれば、チャイハネとはトルコ語で「寄合茶屋」のこと。家族同然の地域の人々が寄り合って歓談する、いわば人と人の心をつなぐ場所を指すという。
進藤さんよく現地で買い付けていると誤解されるのですが、チャイハネの商品の95%以上はオリジナルなんです。弊社にはデザイナーが40人近くおり、彼らがデザインをおこし、現地の工房や工場でつくってもらっています。
始まりは「父が横浜に興した小さな店」
チャイハネは1978年、さわとさんの父にあたる進藤幸彦さんが横浜中華街南門通り商店街の後援を得て、中区山下町80番地にオープンした。
当時、中華街南門通りは人通りが少なかった。町おこしを進める商店街の会長を務めていた幸彦さんは、「シルクロード構想」を打ち立てた。
進藤さん南門通りというのは、北側に東西を走る中華街大通りがあり、南側に横浜元町がある。つまり中国と、ヨーロッパ志向の街並みである元町を結ぶ通りなわけです。そしてシルクロードは交易によって東洋と西洋の文化が伝播した道。シルクロードのごとく、商売によって文化が伝わっていく道になることを、父はイメージしていたのだと思います。
その道はいま「南門シルクロード」という通り名がついている。幸彦さんの功績だ。では、そもそもなぜ「横浜での文化の伝播」にこだわったのだろうか。
幸彦さんは佐賀県唐津市で生まれ育った。進藤さんによれば「高校時代に東北地方で鬼剣舞や鹿踊りなどの民俗舞踊を見て衝撃を受け」、民俗学を学ぶために東京教育大学(筑波大学の前進)文学部に進学。卒業後は高校教諭を7年勤めたが、この間の1969年、1970年に、トルコ政府給付生としてトルコで民俗芸能の調査留学をしている。教諭を辞したのちは、海外の民芸品を扱う輸入会社を経て、1978年にチャイハネを創業した。
進藤さん父はトルコの山奥に住む人々の生活に入り込んで調査をしたんですが、学者というのは非常に客観的な目線で分析をするじゃないですか。そうではなく、トルコ人の民芸品を仕入れて日本で売れば、お互いに生活がかかっているから熱く向き合えるのではないかと考えて、ビジネスを始めたんだそうです。
場所が横浜だったのは「唐津は海沿いの城下町で、文化度も高い。横浜中華街の港町と異文化の雰囲気に、故郷への類似と同時にまったく違う刺激の双方を感じ取ったのではないか」と推察している。
進藤さんはその横浜中華街を肌で感じながら育ち大学を卒業後、父の会社に入社した。20代の頃は海外での買い付けも積極的に行っていた。
進藤さん南米リーダーだったのですが、南米は飛行機代が高い。だからスーツケースに商品を詰め込んで帰国して、本店で売ってもらって、出張代のチケットを取り返せという話で(笑)。ペルーのクスコの石畳って本当にガタガタで、スーツケース一台でも大変なのに二台を両腕で押して運んだ記憶がありますね。標高も高くて高山病にもなりました。
2代目社長を継いだのは、2010年、35歳のときだ。「自分の意思というよりは、大きな運命のうねりの中で辿り着いた」ポジションだった。
当初は創業者の父による独特のエネルギーで会社が回っており、また丁寧な説明もなかったことから、社長業のすべてが手探りだった。当然父に対する反発もあったが、2016年に幸彦さんが亡くなってからは、尊敬の念のほうがずっと強いという。
進藤さん子どもが5人いて、何千万も借金して会社を立ち上げて、やはり情熱とか念の強さが尋常ではない。それゆえトラブルも多かったし、常人ではついていけず、話し合いもろくにできない人だった。でもとにかくやりたいことを達成しようという意欲が強く、民俗や文化を理念にして人生を懸けてやってきたことは、いまだにリスペクトしています。
持続可能なグローバル化を目指して
チャイハネは現在、全国に70店舗を数える。これは長年、各国の工房やつくり手たちと正当な取引をしてきたからに他ならない。中には40年を超える取引先もあるそうだ。
進藤さん「長期的なパートナーシップ」は大事にしています。一度取り引きしたら、二度目も「次は何をやろうか」と話し合いながら、深い関係性を築いていく。第一、その地の文化をテーマにすれば、ころころと生産者を変えるという話には決してなりません。フォークロアに潜む価値をテーマに活動を継続することこそが、社会貢献に繋がると考えています。
ただし、「互いに無理があったら長続きはしない」と、わきまえてもいる。「貧しい人たちを救おう」と利益度外視でやる、言い値で買い上げてお客様に高い値段で買っていただくなど、いわゆる救済型ビジネスだとどこかで破綻するからだ。
進藤さんそれは生産者を甘やかすことにも繋がるし、やはり対等な関係で交渉をシビアに行うのが大事。弊社がきちんと回れば、各国の伝統的な産業も長く続くだろうし、関係している国に対する寄付も含め、商売の循環の中でお金を回すということを心がけています。
寄付の宛先はこの二十数年間で、トルコの地震救済支援から、コロナ禍のハワイの失業者支援、ハワイ州マウイ島の山火事救済支援など多数あり、累計総額は1億1,800万円を超えた。これらは「日頃お世話になっている国が大変なことに」と自然な感じで現場のスタッフから声があがるそうだ。それも社風のひとつなのだろう。
さらに進藤さんには父から受け継いだ“遺産”がある。唐津市呼子の「鯨の町おこし」というバトンだ。
幸彦さんの生まれ故郷である佐賀県唐津市の「呼子」は、江戸時代に捕鯨で栄えた。そこで、歴史と伝統を未来へとつなぎ、地域を発展させることを目指したお祭り「呼子くんち」を開催するプロジェクトが立ち上がる。幸彦さんはこの祭りの実現に奔走していたが、志半ばで逝去。進藤さんが継承した。
進藤さん弊社の民俗文化の根っこにある人間本来のパワーや英知を届けるという信念と、呼子で祭りを復活させ町を復興させる活動というのは、僕の中で重なってきました。月に一度、唐津に行き、いろんな人と出会うことによって、だんだんとこの祭りの実現が自分のものになっていく。そのプロセスは勉強になったし、何より人の思いというのは自分のものにしていくことで初めて継承されるのだ、だったら会社も同じかもしれないと考えるようになりました。
横浜中華街に対する恩返し
横浜ベイクォーターにチャイハネを出店したのは2015年。理由は、「船を模したデザインだったから」という。
進藤さんチャイハネは「旅」というテーマを大事にしているので、船はピッタリでした。旅情のあるショッピングセンターって日本にはそんなにない。ましてや横浜駅のようなターミナル駅の近くで50坪ほどの広さが借りられるのは、ここしかない。やはり広さがないと、チャイハネの世界観が出せないんです。
客層は観光客ばかりではなく、横浜を生活圏とした人も多い。「週2回ペースのリピーターさんも結構いらっしゃるんです」と嬉しそうだ。チャイハネグランピングやチャイハネキャラバンと命名したイベントも広場で開催し、ワークショップなどを通じて地元の人との繋がりを深めている。
さらに進藤さんはコロナ禍で大幅に集客を失った横浜中華街を活性化したいという思いから、2023年4月、地域活性型サウナ「HARE-TABI SAUNA & INN」をオープンした。「サウナはフィンランドの民俗文化ですから」と笑う。
進藤さん 弊社は創業して最初の30年間、横浜中華街でチャイハネのみを展開していた、いわば横浜中華街に育てられた会社なんです。中華料理店はコロナ禍で借金も背負っただろうし、これから盛り返してほしいと思い、サウナ施設を構想しました。サウナ後は塩分が摂りたくなったりスタミナ料理や辛酸っぱい料理を欲したりしますが、その点、中華料理はぴったりですしね。
実際、「HARE-TABI SAUNA & INN」を利用した大半が中華料理を食べに行くらしく、いくつかの店から感謝の言葉ももらっているという。
チャイハネの誕生から46年が過ぎ、現在はそれ以外のブランドや違う業態が生まれたわけだが、「基本的には民俗文化(フォークロア)というものに根付いている」と進藤さんはあらためて口にする。さまざまな国の文化を、商売を通じて届ける。そうやって文化や文化の担い手たちと向き合うことを信念とする社の姿勢はずっと変わらない。
進藤さん ファストファッションが台頭し、家具も量販店が拡大した日本において、単に物理的に生きているだけであれば、弊社の商品は必要ないと思うんです。だけどなぜかお客さんからの熱烈な支持がいまもある。それは文化的であること、手づくりであること、歴史の裏付けがあることなどが、人の心を満たすからではないでしょうか。できるだけ長く、皆さんの心を満たすものをこれからも提供していきたいですね。
PICK UP 商品
「ネパール和紙のカレンダー」
1984年、創業者の父がネパールの首都カトマンドゥの門前町でネパール和紙でできた商品を売る19歳の青年と出会いました。父は彼の工房にインドや日本で購入した資料を持ち込み、彼の美しい木版技術を活かせないかを徹底的に研究。そうして生まれたのが「ヨガ・カレンダー」です。日本で販売したところ、非常に評判が良く、以降40年もの間、彼にカレンダーをつくってもらっています。現在は弊社デザイナーの描いたデザインどおりに版をつくり、その版で縁をプリントし、手作業で絵の具を塗っています。種類は約15種類。日本の繊細な和紙とは違い、繊維が粗く、雑味のある風合いの素朴なネパール和紙でつくられた、工業製品では絶対に生み出せない、一つひとつに肌触りや視覚的な癒しをほどこした貴重な民芸カレンダーです。